2009年07月21日
激安タイヤ?サンエー商品券?とほほ。。。
お久しぶりです。
まず、近況はといえば、なかなかに心境の変化がございまして、このようにこんなところに書いていたりするのです。
そもそもは、「気晴らしとは、仕事への熱中も含めて、死を含む逃れようのない現実から自らをそらすための方便にすぎない」みたいなことが書いてあるのをみてしまったからなのですが、こうなると、その後で、(生の拡充の事実を忘れている限り自分達の活動が)「遊びであり、戯れであり、われわれの日常生活にまで圧迫してくる、この事実の重さを忘れしめんとする諦めである。組織的欺瞞の有力なる一分子である」なんていう力強い言葉を読んでも、まあそれはそれでも何かを忘れたいための気晴らしだわな、などと思ってしまって、これではどうにもやる気が出なかったわけです。
そもそもが、逃れようのない現実といった段階で、逃れようがないから「逃れようのない現実」なわけで、そりゃ普通に自他二元論で生活していたら、自分以外のものは全て逃れようのない現実としていくらでも無尽蔵に迫ってくるわけですし、それを処理できないからこそそれが他者なのだとすれば、それが嫌なら全に帰するか全く孤立して存在するしかないわけですけど、後者が不可能だからこそ逃れようのない現実なわけです。
すると、ある映画でみた、「混沌とは人間の主観だ。世界は調和に満ち溢れている」という言葉も、それは全くその通りなので、そもそも生命そのものが負のエントロピーを浪費して存在していくものであれば、ここで負のエントロピーといえば聞こえがいいけど、結局自分達は植物か動物食わなければ生きていけないわけで、そこにこそ生命の苦痛の根本義があるような気もするので、そんな存在ならば補完されても仕方がないような気持ちもよく解かるのでした。
でもまあ、宇宙空間に100年分の食料や水と一緒に放り出されたとしたら、それは完全な自由なわけですが、すぐに退屈でおかしくなってしまうだろうし、そう考えれば調和に満ち溢れた世界の正しい姿なんて、人間に見える範囲だと只の空虚でもあるのでしょうけれども。
こんな感じで、くすぶっていたのですが、しかし「逃れようのない現実」から逃避せずに、いくら直視しても、逃れられない現実は全然変らないことにも気付いたわけで、すると、現実がかわるわけでもないのにそんなものをずっと反芻しているのは、それは実は自分の内面がそれを選択していることでもある。終わったこと、どうにもならないことなんて反芻する必要がないわけで、そこに気付けば、それが無駄な行為であることがわかる。
たとえ「逃れようのない現実」であっても、スマートにそしてお互いに楽に過ごした方が、というか無駄なエントロピーの浪費を避けて暮らす工夫でもした方が、熱力学の法則にたてをつこうという反逆者としては一矢報いることができそうだし、後々の後悔も少ないような気もしたので、とりあえずa posterioriなくすぶりはやめようかと思ったのでした。
というわけで、現在読んでいるのは、
「黒死館殺人事件」
すごく面白い。
これを手軽に読めるだけでも、iPod touchを買う価値がありました。
しかしまぁ昔の日本人は、実際に外国に行かずともこんなことを知っていたんですねぇ。やっぱり偉いなぁ。
それから、近日中にblog serviceを代えようと思っています。
本当は、はてなに行こうかと思ったのですが、とりあえず技術系の老舗だと思っていたのですが、こんな文字(àçéô)が今だに使えないらしい。
どこか、潰れる心配がなくて使いやすい、広告ゴテゴテで画面の随所から「金儲け命」ってな執念のようなものが滲み出てるようなブログよりも、もっとスマートなサービスはないものかと…..
そもそもは、「気晴らしとは、仕事への熱中も含めて、死を含む逃れようのない現実から自らをそらすための方便にすぎない」みたいなことが書いてあるのをみてしまったからなのですが、こうなると、その後で、(生の拡充の事実を忘れている限り自分達の活動が)「遊びであり、戯れであり、われわれの日常生活にまで圧迫してくる、この事実の重さを忘れしめんとする諦めである。組織的欺瞞の有力なる一分子である」なんていう力強い言葉を読んでも、まあそれはそれでも何かを忘れたいための気晴らしだわな、などと思ってしまって、これではどうにもやる気が出なかったわけです。
そもそもが、逃れようのない現実といった段階で、逃れようがないから「逃れようのない現実」なわけで、そりゃ普通に自他二元論で生活していたら、自分以外のものは全て逃れようのない現実としていくらでも無尽蔵に迫ってくるわけですし、それを処理できないからこそそれが他者なのだとすれば、それが嫌なら全に帰するか全く孤立して存在するしかないわけですけど、後者が不可能だからこそ逃れようのない現実なわけです。
すると、ある映画でみた、「混沌とは人間の主観だ。世界は調和に満ち溢れている」という言葉も、それは全くその通りなので、そもそも生命そのものが負のエントロピーを浪費して存在していくものであれば、ここで負のエントロピーといえば聞こえがいいけど、結局自分達は植物か動物食わなければ生きていけないわけで、そこにこそ生命の苦痛の根本義があるような気もするので、そんな存在ならば補完されても仕方がないような気持ちもよく解かるのでした。
でもまあ、宇宙空間に100年分の食料や水と一緒に放り出されたとしたら、それは完全な自由なわけですが、すぐに退屈でおかしくなってしまうだろうし、そう考えれば調和に満ち溢れた世界の正しい姿なんて、人間に見える範囲だと只の空虚でもあるのでしょうけれども。
こんな感じで、くすぶっていたのですが、しかし「逃れようのない現実」から逃避せずに、いくら直視しても、逃れられない現実は全然変らないことにも気付いたわけで、すると、現実がかわるわけでもないのにそんなものをずっと反芻しているのは、それは実は自分の内面がそれを選択していることでもある。終わったこと、どうにもならないことなんて反芻する必要がないわけで、そこに気付けば、それが無駄な行為であることがわかる。
たとえ「逃れようのない現実」であっても、スマートにそしてお互いに楽に過ごした方が、というか無駄なエントロピーの浪費を避けて暮らす工夫でもした方が、熱力学の法則にたてをつこうという反逆者としては一矢報いることができそうだし、後々の後悔も少ないような気もしたので、とりあえずa posterioriなくすぶりはやめようかと思ったのでした。
というわけで、現在読んでいるのは、
「黒死館殺人事件」
すごく面白い。
これを手軽に読めるだけでも、iPod touchを買う価値がありました。
しかしまぁ昔の日本人は、実際に外国に行かずともこんなことを知っていたんですねぇ。やっぱり偉いなぁ。
それから、近日中にblog serviceを代えようと思っています。
本当は、はてなに行こうかと思ったのですが、とりあえず技術系の老舗だと思っていたのですが、こんな文字(àçéô)が今だに使えないらしい。
どこか、潰れる心配がなくて使いやすい、広告ゴテゴテで画面の随所から「金儲け命」ってな執念のようなものが滲み出てるようなブログよりも、もっとスマートなサービスはないものかと…..
Posted by mouf at 01:36│Comments(0)